旅であった あ・の・ひ・と

バックパッカーにあこがれて、一人旅をするようになった。大学のときに海外にも出かけ味をしめてしまった。飛行機代はどうしてもかかってしまうからできるだけ長く滞在するためには宿泊費や生活費を切り詰めなくてはならない。それが、何の苦痛でもなかったし、だからこそできた貴重な体験がある。旅の思い出が胸をキュンさせるのはそこに生きた人間がいるからだ。

ここに載せた9篇(5篇はcoming up soon)は、いつか、誰かに読んでもらいたいと、感動的な出会いを少しずつ書いておいたものです。旅で出会った人たちに感謝を込めて。

アッペンツェルのロルフ  グラスゴーの婦人  ロンドンの奇妙な一日  紳士アブドゥラ  ホッケンハイムのハラルド  パリの日本人  船乗りデカリストス  パティー  カナダどきどきヒッチハイク

                                                            

アッペンツェルのロルフ

 

 インターラーケンでのスキーを楽しみにしていたのに、冬を迎えた11月の山の吹雪は今ちょうど激しいのだと知らされてやむなく断念。チューリッヒの駅の案内で、スイスらしさを味わいたいのなら是非と勧められたアッペンツェルに向かった。列車で一時間、周りの景色はすっかりスイスの田舎町に変わった。アルプスの山々を背景にした牧草の茂る丘が目の前に広がる。絵のような窓の外の景色にすっかり酔いしれているとまもなくアッペンツェルに到着し、私は学校帰りの子供たちと一緒に列車を降りた。
 「ホフをおさがしかい。」と言って爽快な笑顔で迎えてくれたのはロルフ。駅で教えてくれたロッジ「ホフ」のシェフだった。レストラン「ホフ」の立派な入り口を抜け、狭い階段を上がると奥にスキーヤーズベッドのつまった客の無い部屋があった。私を部屋に通すと、ロルフは口笛を吹きながら仕事に戻っていった。
 パンをかじりながら牧場の柵沿いの道を歩く。寂しい夕食だけど、いつものこと。むしろスイスの空気に胸いっぱいで満足していた。静かなこの村がすっかり気に入ったものの夕方のロッジのホールでたった一人ではがきを書いていると妙に寂しく、寒さもみにしみる。そんな時、口笛を吹き軽快な足音を立てて、ロルフがやってきた。「夕食はまだかいーそれならホフ特製のフルコースをご馳走しよう。」鼻歌混じりにそう言うと、彼はすぐに白ワインのボトルとグラスをトレイにのせてきて、驚いている私の前で詮を抜き、大げさな身振りで一口味見。「Good!」次々とこんな調子で出された料理はどれもおいしい。ワインも料理に合わせて3本も詮を抜いてくれた。こんなご馳走は旅行中一度もお目にかかったことが無いので、粗食になれてしまっていた私の胃ではどの皿も半分しか手がつけられなかった。
 煙に巻かれたように食後のコーヒーを飲んでいると、ロルフに肩車されてホフの主人の子供がやってきた。小さなこの村の小学校にいく彼にとって私は近くで見る初めての日本人らしかった。
 夜の村は凍ったように静かだ。ところがロルフにつれられて出かけたバーに一歩入ると、そこは村の若者の熱気で一杯だった。私は歓待されて、みんなから乾杯を受けて上機嫌なのだが、ロルフ以外は誰も英語がわからない。賑やかな彼らにつられて少々のドイツ語と万国共通の笑顔で三件ハシゴした頃にはすっかり体が暖まっていた。「チュス」覚えたてのドイツ語でさよならを言い、雪の降り始めた道を帰る。
 ホフの屋根裏のロルフの部屋はスキーの並んだ納戸の奥だった。壁に備え付けられた年代もののコーヒーミルなどの骨董品の中で、日本製のステレオとウォークマンは彼のお気に入りだ。一ヶ月もするとツェルマット近くのスキー場に移り、コックをしながら空いた時間にはウォークマンをして滑るのだ、とロルフの青い瞳が輝く。
 今でも、日本人には「ゴルフ」としか聞こえない「ロルフ」の名前を、私は時々舌を丸めて口に出してみる。

                

                                グラスゴーの婦人

 ヨーロッパの鉄道時刻表はトーマスクックの一冊で事足る。と同時どこに行くにも電話帳のようなこの本をすぐに取り出せるように抱えていなくてはならない。調べた時刻通りに列車はエジンバラについた。湖水地帯の冷たい雨で風邪をひき、列車の中ですっかり休息していたわたしは目をはらして駅を出た。
 迷う前に尋ねる、これが一人旅の鉄則だ。毛皮のコートの婦人にまずはインフォメーションがあるはずであるウェイバリーブリッジを尋ねる。ところが有名なはずのこの橋がどうも通じない。VとRの発音にとくに注意してもう一度繰り返すと、婦人は大慌てで「あら大変、それはエジンバラですよ。ここはグラスゴーなのよ。」と私の腕に毛皮の太い腕をぐいと突っ込み足早に歩き出した。エジンバラ行きの列車が出発する駅は今私の到着した駅とは離れたところにある。彼女は北部なまりの英語で説明しながら金融街の雑踏を器用に通りぬけ、駅のホームまでつれて行ってくれた。まるで子供を遠い親戚にやるように、車掌さんに「よろしく頼みます。」と言って、彼女は見えなくなるまで手を振っていた。

ロンドンの奇妙な一日

 曇り空の下の石畳にレンガ造りの建物がよく似合う、一日も晴れることのなかったロンドンの最終日。ドーバーを渡るトランスアルピーノのチケットは夜行のみしかない。私はビクトリア駅でボロボロの時刻表と地下鉄マップを見ながら、夜9時発の列車にのるまでの丸一日の過ごし方を思案していた。声をかけてきたのは40歳位のオーストラリアなまりの男だった。暇だと見抜かれるような素振りをしていたことを反省しながらも、とっさの言い訳も思いつかぬまま、ロンドンを案内するとしつこい彼についていくはめになった。バス一日券、レッドバスローバーをフルに使って二階建てバスにも乗り尽くしたし、地下鉄の檻のようなエレベーターにも慣れた。お金のかからぬところはほとんど歩いて回ってしまったので、あまり安全そうでない彼と一日ロンドン観光する気は毛頭なかった。
 私は別れる機会をうかがいながら、ビクトリアSt.をビッグベンの方に歩いていった。いやに人通りが多い。議事堂の前で皆、何かを待っているらしい。しばらくすると兵隊や楽隊の行進が始まり、何人もの議員の後に、ひときわ立派な馬車に乗ったエリザベス女王が現れた。偶然にも国会閉幕のパレードを拝んだわけだ。華やかな人ごみの興奮の中でも、私の彼への警戒心は変わらなかった。女性の一人旅は慎重に行動しなくては行けない。でも、警戒ばかりしていては逃してしまう面白いこともたくさんある。そこの兼ね合いが微妙で難しい。
 9時までの時間は長いようで短かった。あちこちの競馬の馬券売り場に立ち寄っては真剣な眼差しでテレビを見る彼は「結局儲けられないようになってるのさ、大嫌いなんだ。」と言う。船乗りで、ニュージーランドには自分は、広大な土地を持っているのだという。ウィンピーでウエイトレスをやじったりしながら数時間を過した頃、やっと少し緊張が緩んで、笑えるようになった。
 ロンドンの夕暮れは早い。一人では歩けない夜の歓楽街ソーホーに向かいながら、私は再び不安になっていた。彼は高級レストランの重いドアを開けると、ボーイをかわして狭い階段を降りて行った。地下は厨房だった。彼を見つけると陽気な男たちが肉や包丁を持ったまま、懐かしげに声をかけ戸口に集まった。そこは彼の古巣らしい。私を見て一人の男曰く、「今日はベトナム人といっしょかい?」
 ドーバー行きの列車のみ送りは華やかだ。花束が贈られ、別れのキスが飛び交う若者たちの中で、わたしたちはどんなふうに見えたのだろう。彼は列車に乗りこんだ私を窓の外から見ている彼は、本当に寂しそうだった。彼は、自分の膨大な額の保険金を、自分が死んだらわたしに贈るといって手帳を差し出した。私は名前を書き、電話番号を…最後の一文字で躊躇して一番違いの6で締めくくった。「来年、日本に船が立ち寄った時、きっと連絡するからね。」と、彼は手帳に書いた私の名前と電話番号を繰り返した。

紳士アブドゥラ

 チューリッヒに着いたのは真夜中だった。駅構内に、ホテルの写真と料金が表示され直通電話のついた予約電光板があることをどこかで読んだことがあったし、いざという時は駅構内の待合室で夜を明かす覚悟もできていた。
 ホテルの電光板はわかりやすいところにあったが、手近で安価な宿はほとんど電気が消えて満室を示していた。ブリーフケースを下げた見るからに出張中といったビジネスマン4、5人がやはり電光板を見ては電話をしていたがやがて2、3人の組になり、一晩過せそうな店に行こうという話がついたらしく、立ち去る。いつまでもうろうろしているのは気がひけたので私は待合室を捜した。暖房入りの待合室も一晩中サービスはしてくれないらしく、ちょうど最後の数人がしぶしぶ外に出されているところだった。もう一度電光板のところに戻ると、私の行動を見ていて困った様子を悟ったのか、一番紳士っぽい人が声をかけてきた。人相の悪い人浮浪者風の人につかまったらどうしようかと思っていたので、きりりとした身なりの人に警戒しながらもほっとした。
 こういう時は顔色で悪い人か良い人かわかるものである。というか、とっさに判断しなくてはいけない。今考えるとそれは危険な賭けであった。私のカンは当たり、駅周辺で行き倒れることも、浮浪者に付きまとわれることもなく、このアブドゥラとの奇妙な出会いは深い思いでとなった。
 新婚旅行のカップルもいるこぎれいなラウンジで、久しぶりのすがすがしい朝食だ。ネクタイの紳士とGパンの私。彼はフランス人ー英語も流暢ーで、トルコに住んでいる。仕事でベニスに向かう途中だという。昨日のような不用心は危険だよ、と彼は男性皆狼論を説く。
 チューリッヒの町は実に豊かさを感じさせる。何にでもお金がかけてあって、なんでも高価だ。銀行やデパートのウィンドウを眺めながら、くりを食べ食べ、といっても天津甘栗ではない。発音は「マロン」ではなく「マルーン」という。日本で見るものと違って大きくて食べ出がある。街路樹の下のベンチで話しこんでは歩く。恰幅の良い、髭を生やした紳士がお菓子の本を真剣に選ぶ姿も不思議なものだ。アブドゥラはお菓子の会社に勤めているのだ。事務所にはる、おいしそうなお菓子のポスターが欲しいと、何件も店に入る。
 いつのまにか話題は家族のことになり、イスタンブールの最愛の妻のことになり、わたしたちは適切な単語が見つからぬもどかしさを感じながらも、一日中おしゃべりをしながらチューリッヒの街を行ったり来たりした。
 どうしても私を見送りたいといって、彼はベニス行きの飛行機を一日送らせた。列車の別れはいつも劇的なシーンになる。そんな場面が私を感傷的にさせたのだろうか、動き出した列車の中で、私は人目も気にせずに涙を流していた。